前回の最初の記事で、「偏差値30から東大」という話を見ると、まず「その偏差値30って、どんな30だったの?」と考える、と書きました。
今回は、その話を少し掘り下げます。
「ビリギャルの偏差値30から慶應」「西岡壱誠の偏差値35から東大」
こういう言葉を見ると、自分にも可能性があるのではないか、と感じるかもしれません。その話に励まされて、勉強を始める人もいるでしょう。
ただ、同じ偏差値30台でも、中身はかなり違います。
どの模試の、どの科目の数字なのかという違いもあります。しかし、今回はそれ以前の話です。私が考えたいのは、その生徒にどれだけ「学習の土台」があるかです。
実例2人はどちらも中学受験経験者で、全体から偏差値60程度の学校で、既に「学習の土台」が存在しています。理解する力はあるけれど、単に勉強していなかった生徒と、真面目に勉強していてもなかなか身につかない生徒。同じ点数だったとしても、この二人を同じ出発点として扱ってよいのでしょうか。
今回取り上げたいのは、後者です。
例えば、高校3年生になり、本人も真面目に取り組もうとしている。それでも、高校1年生の内容を理解するところで、何度も止まってしまう生徒がいます。
演習量を増やそうにも、まず一問の説明を理解するために、かなりの時間がかかります。
一方で、こういう生徒もいます。
「自分はバカだから、勉強は無理です。嫌いです」と言う。「理屈はいいから覚えなさい」と言われると猛烈に反発する。
でも、理屈を順番に説明すると、楽しそうに聞きます。
「ああ、そういうことか!」と、納得してくれる。実は学ぶこと自体が嫌いなわけではないし、分かったときの喜びもある。
ところが、翌日になると、前日に理解したはずの内容を、自分では説明できない。問題を出しても手が動かない。もう一度説明すると、「ああ、そうだった」となる。
「理屈はいいから覚えなさい」と言われるのは嫌いなのに、いざ一人で勉強すると、解き方を丸ごと覚えようとしてしまう。
このような生徒と、「分かるけれど、今までやっていなかった」という生徒では、必要な指導も、かかる時間も違います。
勉強していなかった人が努力して難関大学に受かった。それは立派なことです。
しかし、その話を「偏差値30台から合格」とだけ紹介して、真面目に取り組んでも学習が積み上がらない生徒に「君も同じようにやればいい」と言えるでしょうか。
私が気になるのは、その違いが抜け落ちたまま、「本人のやる気次第」という話になってしまうことです。そこまで含めると、「可能性があるから頑張ればいい」と簡単には言えるわけが無いのに、わかりやすいキャッチフレーズを出して、売る。
この「情弱を相手にする商売」は、本当に見ているだけで気分が悪くなります。
では、学習の土台が弱い状態から、東大を目指すことはできるのか。
可能性は否定しません。ただし、現実的には不可能に近い、というのが私の答えです。
「正しい学習」を3〜4年続ければ可能性はあるでしょう。では、「正しい学習」とは何をすることなのでしょうか。
読書習慣。集中力。物事への取り組み方・考え方。すぐ飽きる癖。分からないことから逃げる癖。
生活そのものから変えなければならない。
つまり、「勉強を毎日6時間やればいい」という話ではないのです。
今まで十数年間かけて作ってきた自分の行動や考え方を、大きく変える必要があります。
そして、その途中で心は折れてしまいます。
頑張っても周りほどできない。同じ時間勉強しても追いつかない。周りが遊んでいる間も、自分は勉強している。それでも、周りの方が点数を取る。
これを何年も続けられる人は、そう多くないでしょう。
加えて、自分に合った学習を誰が教えてくれるのか、という問題もあります。学び方に苦戦している生徒が、自力で適切な方法を見つけ、修正し続けることまで期待できるでしょうか。そこまでかけると6年前後はかかるでしょう。
だから私は、
偏差値30から東大は「不可能」とは言い切れない。
しかし、「可能性があるから目指せばいい」と簡単に言えるほど現実的でもない。
と考えています。
一方、偏差値40程度の大多数の生徒なら、現在の成績が低くても、説明を理解し、復習すれば定着させられる生徒なら、話は変わります。
学んだことを積み上げられるかどうか。この違いは大きいです。
その土台があれば、高校1年生から3年間、適切な学習を続けて難関大学を目指すことは、現実的な選択肢になり得ると思います。
もちろん、それでも普通の努力ではありません。
「どうしてもこの大学に行きたい」「家庭環境が悪く、何としても今の状況を変えたい」。そうした強い思いが支えになるでしょうし、努力を続けられる環境や指導も必要です。
だからこそ私は、「東大に行けるか」という話を、単なる努力論にも、夢物語にも、才能論にもしたくないのです。
「偏差値30から難関大学」という言葉には、希望があります。
だからこそ、その言葉を使うなら、どんな生徒が、何を変え、どれだけの時間をかけたのかまで伝えてほしい。
成功した人の到達点だけを見せても、今、勉強に苦しんでいる生徒が、そこへ進めるようになるわけではありません。
努力を勧めるなら、その努力の中身と、続ける難しさまで含めて話す。
私は、そこまでが教育に関わる側の仕事だと思っています。

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